それほど昔のことではありませんが,教会に通っていた人々は,いつも牧師が説教壇から声を張り上げて,いわゆる“七つの大罪”―欲情,大食,貪欲,怠惰,怒り,ねたみ,誇り―を非とするのを耳にしました。たいていの場合,牧師は聴衆に,罪を犯したらどんな恐ろしい結末になるかについて述べ,悔い改めるよう強く勧めたものです。ところが,「今では,ほとんどの宗教的メッセージが,罪にまつわる不愉快な現実から目を背け,“いい気分にさせる”事柄に主眼を置いている」と,ある著述家は述べています。
新聞のコラムニストたちも,そのような傾向を認めています。以下に挙げる論評は,新聞の抜粋です。
今日の多元的で寛容な社会に生きる人々は,道徳上の判断を下すのをためらいます。そうした判断は差別につながる,と言われているからです。他の人の行為を裁くことこそ最大の罪であるように思えるのです。そのため,こう考えます。『自分の信じている事柄は自分には正しいことかもしれないが,それをむやみに他の人にも信じさせようとしてはならない。今の人は皆,各々異なる価値規準に従った生活を営んでいる。道徳的に何が正しいかを決める独占権を持っている人はいない。他の人の価値規準も,自分の規準と同じように有効なのだ』と。
そうした考え方は,言葉にも変化をもたらしてきました。例えば,英語ではもはや,“同棲する”ことを“罪のうちに生きる”とは言わず,“一緒に生活する”と言うだけです。また,“姦淫を行なっている”と言う代わりに“関係を持っている”と言い,“同性愛者”と呼ぶ代わりに“新しいライフスタイルの人”と呼ぶのです。
そのように,人々が何を“正常”とし,何を“罪”とするかに関して,変化が生じていることは疑えません。それにしても,なぜそのように変わったのでしょうか。罪はどうなってしまったのでしょうか。また,罪についてどう考えるかは重要なことなのでしょうか。